大堀館跡
ねえちゃが散歩に出ると、すれちがった子供たちが、しばしば「こんにちは」と明るくあいさつしてくれます。近くに小学校や中学校があって、それらの通学路になっているからです。
そんな、近くにある更北中学校の敷地には、川中島の戦いで重要な役割を果たした大堀館があったことでも知られています。
校門の脇のところに「大堀館跡」の石碑が建っています。大堀館は幅3間半、高さ2間半の土塁が四方を囲み、外側は幅4間、深さ9尺の堀がめぐらされていたといいます。
弘治元(1555)年の第2回川中島の戦いで、武田軍と上杉軍が犀川をはさんで、200日にわたって対陣したとき、信玄はこの大堀館を本陣とした、とされています。
大堀館は、大塚館ともいわれ、信玄、勝頼2代に仕えた町田氏が居を構えていたと考えられています。
町田兵庫正之は、1561(永禄4)年の武田氏による割ケ嶽城攻略の際、城将の山崎七郎を討ち取った軍功をあげたそうです。
正之、さらに子の光直は、信玄、勝頼2代に仕えましたが、武田家が滅亡すると武士をやめて、この地に帰農。館はその後、焼失してしまったとか。
館跡の隣にある安養寺には、信玄が奉納したと伝えられる守護仏不動明王が安置されています。